We are just creatures on the earth

 夕暮れて帰路を急ぐ時の快い疲労は、魚籠の重い軽いに関係なく、満ち足りた気持ちを与へて呉れるのである。
 若し溪谷釣りで、山中の流れを釣り登るのであるならば、一つの釣場から次の釣場迄岩をよぢ上り、山吹の叢を踏み分け、思ひもよらぬ萬古の雪に足を滑らせ、自然と戦ふたのしみは一入深いであらう。そして一日の労苦に重い魚籠を誇つて、遂に魚どめの滝で竿を収めて、さて山中暦日なき深山のまこと鄙びた山の湯に一夜の泊りをする時のうれしさ、それは釣人のみが知る法悦境であらう。
 すべての肉体的運動のうち、大地を両脚で蹴つて進む歩行ほど、全身の筋肉を平等に働かせるものはないであらう。錬成の基本となる運動は歩行である。その歩行も駈足でなく、スタ/\とあるく歩行である。
 歩行は脚部だけの運動ではない、腰部は云ふ迄もなく、腹筋も背筋も、進んではうなじの諸筋肉に到る迄、相当の活動をしなくてはならぬのである。唯強ゐて云へば、手の筋肉の活動が比較的少いだけである。幸にも釣人は一日中竿をふつて居なくてはならぬので、肩から手先の筋肉まで活動する事になるのである。
 溪谷に沿つて釣り登る場合には、全身の筋肉の活動の程度は一層強いのである。

 そのロケーシヨンの下調査の時、私はこの辺で富士の見える所は、みんな富士見高原と思つて居ます、と話して、小海線も一応見て下さいと云つたのである。それでこの滝もロケーシヨンに入つたのである。
 あの頃は小海線がやつと開通したばかりであつたが、私はそれ迄にもう二回通つて居た。最初は鉄路が清里迄やつと出来て、汽罐車だけ試運転をした時であつた。景色のすばらしさを私に宣伝させる下心があつてか、私にその試運転に便乗する交渉があつたのである。私はスイスの高山を見物して帰つた後なので、申訳ない事ながら、日本の景色ぐらゐたかが知れて居ると、いさゝかならず軽蔑して、この試運転に便乗したのである。ところが私は全くあきれ返つてしまつたのである。こんなすばらしい景色が日本にこそあつたのである。
 その後私の友人で、わがスイスが居るので、彼氏をだまして一度この線へつれて来た。彼氏曰く、これはすばらしい、全く日本ばなれがして居る、と。ほめ方に日本ばなれと云ふのは不届であるが、とにかく世界一と日本人には思はれると確信して居る。

 私は下宿屋に於いても温泉に於いても、雨の降る日には屡々少年の頃、森田思軒の譯文で讀んだアーヴイングの小品「肥大紳士」を思ひ出したのであつたが、今日もそれを思ひ出した。
 雨の日の旅館の侘しさに屈して居る男が、隣室の泊り客の氣六ヶしい言語擧動に耳を留めてゝどんな客かと怪しんで、「肥大紳士」たるその客の正體を、出立の間際に見つけるといふ、筋立てのさして面白くもない小品たるに過ぎなかつたが、どういふものか、私の幼な心に懷しく印象された。……「鷄が糞矢の側に、雨にしよぼぬれて餌をあさつてゐる」のを、所在なく見下ろしてゐる男は、壁一重隣りの客が、主婦をとげとげしく叱りつける聲を聞きつける。……そこに何となしに、旅の雨の侘しさを、私は感じたのであつた。
 眼を轉じると、午後の茶を飮んで居る人々、雜話に耽つてゐる人々、さま/″\の異國の男女が、あたりに見られたが、日頃こゝに泊り馴れて居る私は、さして物珍しくは感じなかつた。たとへ他國人を重な顧客としてゐるホテルであつても、東京の眞中に存在してゐるこのホテルは、私をして、波濤千里の異域に身を置いてゐるやうな白晝夢を夢見させる力を有つてゐなかつた。